何をしたら研究になるのかがわからないのは、仮説と説得材料がわかっていないからではないか。

研究はうまくいっていない。
毎日研究室に行って、何か作業をする。
そして週に1回指導教員とミーティングをする。
それを繰り返していれば、研究になると思っていた。
思っていたが、そうではなかった。

同期たちが次々と生物の行動などを解き明かして、論文を書く中で、自分は何を論文にしたらいいのかもわからない。
実験はしている。解析もしている。
でも、それが結びつかない。

甘えるな、と先輩に言われた。
そうだと思う。
できていないと不安になることに逃げるな、とも言われた。
確かにそうだ。

ここ1年ぐらいは、「なぜ自分は研究ができないのか。」「どうしてだ。」ということばかり考えていた。
そうすることで、いつの日か「研究ができない原因」がわかって、それを改善すれば研究ができるようになると考えて。

それは取りうる選択肢の中で下の下だったと思う。

研究をしたいのだったら、自分のことに悩んでいるのではなく、研究対象と向き合い・研究対象のことを考えることに時間を使うべきだったのだ。

前野 ウルド 浩太郎さんの「バッタを倒しにアフリカヘ」読んだ。
数か月前に先輩から、読んだことあるか?と聞かれて、読んだことがなかったので、買って積んでおいた本である。

読む手が止まらなかった。
自分が日本で、「なんで自分は研究ができないんだろう」とウジウジして、研究ごっこをしているのだろうと思った。

前野さんはポスドクになってからフィールドワークをはじめ、しかもその初陣がサハラ砂漠。
その最初のフィールドワークから、バッタの生態に気が付いて、その場で仮説を立てて検証するためのデータを取り始めた。

すごすぎると思った。
「仮説を立てて、その検証をする」という当たり前だが、自分が3年かかってできていないことを、すんなりと飛び越えたのだ。

もちろん世の中の多くの院生やポスドクの人たちはそれが当たり前にできているのだろう。
でも、その瞬間を自分が直接目にすることはなかった。
しかし読書を通じて、その瞬間を文字として知った時に、「本格的に自分やばいな」と感じた。

でも、同時に「そっかそれでいいのか」と何かをつかみかける感覚もあった。

前野さんは「バッタは自分のいる植物の大きさによって、逃げ方を変えるのではないか」という仮説を立てた。それを検証するために、1)植物上の群れの個体数、2)逃げ方、3)シェルターの質の基準として植物の種類と大きさ、を調べることにした。(同書・P56を要約)

それだ。それなんだ。それが自分には欠けていた。
「XXのことを知りたい」「XXのことを明らかにしたい」それしかなかった。
「AAでBBなのではないか」という具体的な、検証ができる仮説がなかった。
それじゃあ、何をしたらいいのかわかるはずがない。

自分は、「Aを知りたいから、BとCを知りたい。」みたいなことしか考えられていなかった。
だから、「Dという実験をして、Eという解析をしてみたらいいのかな」というところで止まっていた。
それだと、何が出てきたらどういえるのかがわかるはずがない。

ずっといろいろな人に指摘をされてきていた。「解ける問を持て」と。
でも、それがどういうことなのかがわからずにずっといた。それがわかった…ような気がする。

そして、次に思ったのは、どうしたらそれを検証できるのか。ということ。
仮説を立てる。いいことだ。
では、それを検証して人を納得させるにはどうしたらいいのか。
どうしたら人は納得するのか。

それがパっと浮かばない。嫌になる。
自分は人の言ったことをすぐに信じる性質だ。だから、相手もこちらの言ったことを無条件に受け入れてくれると無意識に思っていた。そんなわけない。そんなの科学を何もわかっていないやつの発想すぎる。恥ずかしい。


なんでこれがわかっていなかったのか…。

でも、やっとわかった。たぶんわかった。
次はこのつかみかけている感覚のものを、自分のところにもってきて、次にするべきことを考えることをするべきだ。

次にやるべきことがわからなければ、何をどうしたらいいのかわからないのだから。

それにしてもこれを自覚せずにここまで来ていたのが、恥ずかしすぎる…。

でもそんな他人の目を気にすることも不要なことなのだと思う。
他人は別にそこまで僕のことを見ていない。
仮に大学院をやめても数か月すればほとんど思い出されることはないだろう。
じゃあいったい誰が、自分のことを恥ずかしいと思うのか。それは自分だ。自分しかいない。
自分がそんなことを気にせずに、研究にその労力を割いていけばいいのだ。

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